記事作成日から約5年前に起きた東日本大震災。あれからも何度か大きな地震が日本各地で起き、それまで持っていなかった地震大国に住んでいるという自覚を多くの人に芽生えさせたように感じる。直近でも熊本県で大きな地震が起きて生活が一変した人も少なくないと聞く。津波が無かったのが不幸中の幸いというやつだろうか。

東日本大震災を境に私の中で何かが変化したような、変化ではなく何かが顕在化してしまったような何とも表現し難い心境が多く表れるようになった。そしてそれを明確にするにはあの時のことを振り返る必要があるのではと思い、当時の体験を書いてみることにしたのです。

風化させないとかそういった大義名分は無いし一人の人間の過去でしかないけれど、もしこの駄文が誰かの何かの役に立ったらタナボタラッキーってやつだね。

地震発生時

当時の私は保険代理店を営んでおり、2011年3月11日は福島県いわき市のとある公共施設にいた。そこでお客さんと電話していた時に大きな揺れが襲ってきた。

立っていることも難しい程の大きな揺れを近くにいたおじさんとしがみつきながら数分間揺れが収まるのを待った。今思うと立っている必要がなかった。出来れば机の下とかに隠れたかったがちょうど広々としたホールのど真ん中あたりにいたので地震をやり過ごすこと以外に瞬時に対策を講じれなかった。そもそも歩くことが難しいレベルの揺れではあったけどさ。

揺れが収まってから外に出ると所々コンクリートに亀裂が入っていたり隆起していた。そりゃ(あんだけ揺れたら)そう(なる)よ納得しつつ我が家が少し心配だったのでそそくさと帰ることにした。

帰りの車内、移動中は余震を感じないけれど赤信号に捕まって停車中は他の車がみんな左右に揺れているのに気がついた。ちょっと面白い光景だなぁなんて呑気に構えていた。この時はまだ事の重大さを理解していなかった。

自宅に帰ってみると物が落ちたりはしていなかった。しかし家の壁や風呂のタイルにヒビが入っている。ついでに部屋の角の壁紙が破れている。こういう時に施工の雑さって出るんだなぁ。

そして何となく落ち着いてからテレビを見て驚愕した。津波に家や車が飲み込まれていく様を空撮した映像が流れていた。「え?コレ中継なの?本当のことなの?」なんてのたまっていた記憶がある。どうやら宮城県の映像らしい。

テレビの映像に驚愕しているとちょうど雪が降ってきた。なんだか状況と相まってこの世の終わりのような雰囲気を感じさせる雪だった。

もっと身近なところに不幸はあった

翌日、気がかりなニュースが舞い込んできた。長兄の子、つまり私の甥っ子が行方知れずらしい。それを聞いて大きく動揺してしまった。私の両親は普段柔和な雰囲気を持っているがその時ばかりは鬼気迫った表情だった。当たり前だ。両親は事情伺いに長兄のもとへ向かった。

そしてタイミングの悪いことに次兄が出張で宮城県に行っていた。大丈夫なのかと心配していたら連絡があり、無事だけど交通機関が使えず帰れないから迎えに来てくれとのこと。すぐさま車を走らせた。どうやら次兄は途中までヒッチハイクでなんとか距離を詰めてったらしい。我が兄ながら肝が座っている。

とりあえず次兄は大丈夫だったが甥っ子が心配。そして彼女との連絡がつかないのも非常に心配だ。携帯は回線麻痺してるし公衆電話からかけても通じない。メールにも反応が無かった。とっても心配だ。だがやがて連絡が来て無事であることが確認できてとりあえず安心した。

そこから数日経っても甥っ子の存在が確認出来ない。誘拐されたとかどこかではぐれたってわけじゃないので口には出さないがみんなある程度の覚悟はしているはずだ。長兄はどんな気持ちで日々過ごしているのだろうか?

来たる覚悟の日

しばらく経って、甥っ子の存在が確認できたという知らせが入った。私たちは早速、市営の体育館に向かった。体育館の一部は遺体安置所となっていた。つまり亡骸とのご対面だ。

甥っ子の死因は津波によるものだ。長兄の嫁さんの実家にいて津波にやられた。そこは海から近い場所だった。

全身アザだらけで傷もものすごい数で直視するのを憚られるが間違いなく甥っ子だった。予想はしていたが泣いてしまった。長兄も当然のように涙を流していたが悲しみの中から優しさが垣間見える表情を浮かべていた。予想していたとはいえ無念極まりない結末だけれど再会できたことに安堵し生まれた表情なのだろうか。

ただ私が相当なダメージを受けているのだから親である兄の精神的な疲弊は計り知れないものだろう。これまで本当によく頑張った。

速やかに葬儀が行われ、甥っ子は供養された。おそらく長兄はこれから喪失感との戦いになる。どうにか正気を保って欲しい、そんで無理なときは無理しないでほしい。

身内なら尚更なんだけど子どもの死は無条件に悲しい。色んな未来があっただろうにと思ってしまう。生きる選択さえさせてもらえないのはあまりに厳しすぎる。運だとか自然淘汰の一部だと言われればそれでオシマイだけどそれだけで納得しきれない感情というものがある。

そしてこのような思いをする人が山ほどいると思うとゾッとしてしまう。

日々の生活

意外なことにあれだけの地震が起きても停電は30分程度だった。ガスも止まったが緊急停止装置的なものが作動しただけでリセットボタンを押したら割とすぐに復旧した。問題は水。水道の復旧にはさすがに時間がかかるので配給の水に頼るしかない。トイレの水もある程度計画的に流さないといけないし頭を洗うのも節約が必要だ。夏場じゃなくて本当に良かった。

我が家は水道の復旧までそこまで期間を要しなかったが、どうやら高い位置にある家は復旧に時間がかかったらしい。団地だと1ヶ月水が出ない状態とかあったようだ。高台ってそういうデメリットもあるのね。

原発の影響で運送業者が福島県に入りたくなくなったらしく、物流が途絶え気味になったのでスーパーの品物が激減しガソリンも給油できなくなった。けれどひもじい思いをするほど困窮したわけでもないし慣れたら特に何も思わなくなった。

10分に1回くらいの頻度でやってくる余震も最初は怖かったが最終的には夜中に震度5くらいのが来ても気がつかないくらいには慣れていた。これはある意味危ない習慣な気がしないでもないwけれど気にし過ぎると大変疲れるのでこのくらいでもいいのかなとも思う。

被災中の仕事

保険代理店として火災保険(地震保険)の契約件数がそれなりにあったので地震保険の保険金請求に追われた。地震保険勧めておいて正直ここまで大規模な地震保険金請求をするとは思っていなかったのである意味貴重な体験をしているのかなと思ったりもした。3桁件数も手続きすると少し疲れるけどね。

代理店は請求手続きするだけで保険金を支払う権限は無いけれどお客さんの要望でウチ見に来てくれっていうお願いが結構あった。そういう時は査定する人と一緒に見に行くんだけども、古い家でも壊れる家って殆ど無いんだなーっていう印象。倒壊する家ってのは稀でよっぽどアレな家だ。ただ補修が必要な家は多いので地震保険は安いし保険料控除できるし入っておいて損は無いかなって感じだね。

ただ前途のようにガソリンが手に入りにくい状況だったのでお客さんの家に向かうにも燃料がかなりギリギリの状態が続いた。というか遠方のお客さんのところには行けない時もあった。

このような状況で署名が必要な契約内容の変更依頼がお客さんから来て非常に困ってしまった時があった。ガソリンが本当にカツカツだったので保険会社の担当に何か措置は無いか尋ねたら「署名いただいてきてください」一辺倒だった。少し怒りを覚えたが結局タイミング良くガソリン入荷?したスタンドがあったので事なきを得た。

我慢していたことに気が付く

私はこれまで漠然と仕事に対して不安を抱いていた。保険代理店という仕事をずっと続けられるのか、そもそも続けたいのか。

保険代理店という仕事自体はある種、悠々自適な側面があって良いと思うが私はあまりコミュニケーションが得意でない。というかかなりのコミュニケーション下手だ。世間の言うコミュ障ってのがどのくらいか分からないが時々そんなレベルまでコミュ力が下がることがある。

保険代理店は営業のお仕事なので喋れることが大事。しかし私は喋ることが得意じゃないので、そういう意味では苦に感じることが多い。

でも得意不得意の前に仕事はしなくちゃならない。そんな風にずっと思っていたが、そういった自制心が働かなくなってきてしまった。それに何事も慣れだと思っていたがコミュニケーションに対する苦手意識はいつまでも拭いきれなかった。

あまり自制が効かなくなったのは甥っ子の死を考えるようになってからだろうか?

甥っ子は幼稚園に上がる前にとんでもない恐怖に襲われて亡くなってしまった。もちろんその直前までは様々な経験をして楽しいことも沢山あっただろうけど自我が芽生えてからあまりに短い時間だ。

その人生に一体どんな意味を私は感じれば良いのだろうか。どんなに考えても前向きな意味を見出すことが出来ない。長兄の悲しみは長く付いて回るだろうし実際長兄は少し情緒不安定だ。

そんな考えが堂々巡りして最も結論に近づく結論はどこの誰の人生にも意味なんてないんじゃないかということ。悪い意味では無くてね。逆に意味があったら甥っ子が生まれて死んだ意味を誰か教えてほしい。

人生に意味が無いのならわざわざ苦手な仕事をしている必要は無いのではないか、むしろわざわざ苦手なことをして気持ちを疲れさせることにそれこそ何の意味があるのかと自分に問うようになったのかもしれない。

それならばいっそのこと苦手なことをし続けたキャリアを捨てて好きなこと、それまでやろうと思わなかったことをやってやろうじゃないかと考えるようになって自制心が変になった。

皮肉にも東日本大震災が私を我慢から解放してくれたようだ。

やりたくて今すぐ出来ること

すぐに出来てやりたいことを、突拍子もないことを!とアレコレ考えた結果、まずは彼女の夢を叶えることが手っ取り早く出来そうで且つ面白そうなので実践することにしてみた。

彼女は世界一周するという夢を持っていた。全くもってそのような考えを持ったことがなかったので驚いたが案外やってる人が多いらしい。しかもなんだか楽しそうだw

そもそも私は個人で海外に行ったことがなかったので細かい不安を抜きにして想像しただけでもドキドキするような話だった。そんな世界があるんだなと感心した。

元々は彼女の夢だったがどちらかと言うとやってみたい気持ちは私のほうが強かったかもしれない。仮に世界一周じゃなくても何でもやってみたかっただけかもしれないけどね。でも世界一周っていう浮世離れした響きがその時の私には心地よかった。

結局仕事の整理をしたりお金を貯めたりで震災から2年後に結婚してから夫婦という形で旅に出ることになった。妻のご両親に挨拶に行った時は「結婚するけど仕事辞めて旅に出ます」なんて殴られてもおかしくないようなことを言ったがご両親も旅行好きでそれなりに理解を得られた。多分。

何となく1年間くらいフラフラしようかっていう予定が結局は1年半ほどの時間を費やして帰ってきた。ここからが本番だ。

自分をよく知らなかった

震災を経て海外をフラフラして、何となく大事なことってバランスを取ることなのかなと思う。

「仕事は長く続けるべき」という先入観のもとで保険代理店を続けていたら私はモヤモヤした日々を送っていたはず。少なくとも私に保険代理店という仕事は厳しい。でも合ってる人多いだろうなぁーっていう仕事にも感じる。

保険を売る仕事は私にとっては人と接するという面でのバランスが取れなかった。でもだからと言って人と接する仕事全てが合っていないと言い切ってしまうのもまたバランスが悪い。

営業は攻めていく仕事だ。苦手な人にはとことん苦手だろう。同じく人と接する仕事でも人から来てもらう場合だったらまた違う環境だ。営業はダメでも接客はそこまで苦じゃない可能性もある。

要は誰かの天秤でバランスを取ろうとせず自分の天秤でバランスを取ることが私には必要だ。水だって飲み過ぎれば毒だし運動しすぎてもしなさすぎても不健康。何事もバランス。そしてそのバランスは人それぞれ違うんだね。

そして生きる意味について、生きる意味なんて全然無いから好きなように生きたら良いっていうのが私の中で良いバランスではないかと定義しているが好きなように生きるってのは結構難しい。

私が好きなようにすると収入が発生しなくなってしまう。一定の収入を生みつつ好きなように生きる術を身に付けていかなくてはいけないね。

仕事だけではなく人との距離感のバランスも私には非常に重要視すべき項目だ。夫婦の距離感は近ければ近いに越したことはない。友人と家族との距離感は程々くらいが心地よい。あくまでも私の場合はね。もちろん中には夫婦間は程々で友人家族とは密接ぅー!が心地よい人もいるでしょう。

酒も飲める人飲めない人がいて、ご飯もたくさん食べる人そんなに食べない人がいる。そういう自分のちょうどいいバランスを多く知るだけでとりあえず良い感じに生きられるかな。

東日本大震災が浮き彫りにしたもの

結局のところ嫌なことを我慢し続けてバランスが崩れていることに気が付くきっかけが東日本大震災だったということ。そんでバランス修正するのもなかなか大変だ。

ちょっと大げさになってしまったけど、何か我慢し続けていることがあるとかやりたいことがあるけど二の足を踏んでしまう心苦しい何かがあるという人は自分が心地よい環境になるであろう方向に迷わず進んでいくと良いと思いますです。

我慢することはやめて、やりたいことやって、苦しいことからは逃げる。どうせ意味なんて無いから何しても大丈夫です。咎める人の声も特に意味は無いので無視して構いませんよ。

私は営業の仕事から抜け出してかなりホッとしている。かわりに収入が減ったのでそれはそれで結構大きな課題だけど心のバランスが悪いよりはマシでございます。